エッセイ

二科展3年目の挑戦

2023年09月06日

 

「二度あることは三度ある」「三代目が会社を潰す」「石の上にも三年」など三にまつわることわざがあるが、今年の二科展の応募はまさに三年目の挑戦であった。
一昨年の“木彫楠公像”と昨年の“木彫龍図”は並行して制作をしていたが、どちらも3年かけて取り組んだ私にとっては大作であった。しかし昨年の展覧会が終わった時点で、制作中の作品は一つも無かった。今年の二科展に応募するためには1年以内に作品を仕上げなければいけない状況であった。
大作は作れないが「レベルが落ちたな」と言われる作品も出せない。まずはテーマを考えるところからのスタートだった。
よくあるのは作家によってのテーマがあり、動物を専門に彫る人。空想上の生き物を彫る人。また生き物でも物でもない抽象的な立体造形を作る人。どの作品を見ても作家個々の特徴があり、一見でその人が作ったものと分かるということが多いように思う。
しかし私の場合一昨年は騎馬武者像、昨年は龍の彫り物と、テーマに一貫性がない。
最初に入選した時に、これから木彫の武者像をテーマに毎年新しいものを作ろうかと思った事もあったが、最初の作品に3年もかけたものだから、1年で仕上げるような作品を作ってはやはりレベル落ちは否めなくなる。いったい秋川のテーマは何なのだろう。
そもそも私が好きな彫刻のスタイルは明治から昭和初期の写実を基調とした超絶技巧の作品である。高村光雲の人物像の、重心がしっかり乗って今にも動き出しそうなリアルな作品や、石川光明の動物像の毛並みの柔らかさまでも感じられる作品にとても魅力を感じる。
それゆえに私は現代の流行とはかけ離れていても、自分の好きなスタイルの彫刻を彫りたいと思った。それは古き良き時代を踏襲した、いわゆる“新古典主義”である。
そこで思いついたイメージは竹の上に乗った蛙と蛇の作品である。
子供の頃よく捕まえた蛙とヒバカリという小さな蛇の姿は私の脳裏に今でも焼き付いている。
枯れた竹の薄茶色とアマガエルの黄緑色、そしてヒバカリの濃い茶色の組み合わせがとても絵になる気がした。
本来私は木肌の色や質感を見せる無彩色の作品を好むが、今回の作品は色の対比も作品の良さを引き立てる要素になると思い、彩色を前提にイメージを構築していった。構図としては“蛇に睨まれた蛙”という弱肉強食のひとコマを表現しようと思った。
秋川らしい写実を表現するにはまずは観察からスタートさせようと思い、故郷西条に帰省した時に、山の竹藪から枯れて落ちていた竹の木を一本持ち帰った。それを眺めながら、どの節を切り取りどのような構図で蛙と蛇を乗せていくかを想像した。そして作品として程よい太さのところをノコギリで切り取ってみた。
山で採取した木にはゴキブリなどの卵がくっついている事が多いので、一度熱湯消毒をするべく沸騰させたお湯をかけてみた。すると竹が真ん中から二つに割れた。「ヤバい、失敗した」と思ったが、よく見るとその割れた竹が何とも竹らしくて風流に見えた。そこでその割れ目も彫刻に反映させることにした。そしてその竹の上に粘土で蛙と蛇の姿を作り始めた。
本来ヒバカリとは小さな蛇だが、自分の体よりも太いカエルを一飲みにしてしまうらしい。
やはりその丸呑みにする前の瞬間を切り取れればと思った。それには蛙と蛇の距離感がとても大切になる。一度作った蛙と蛇の距離を微調整していった。
竹には節がある。その節を相撲の土俵に見立てた。本来蛇の尻尾は節からはみ出した方が彫刻的観点としては美しい。しかし節を土俵に見立てた場合、蛇の尻尾がはみ出ていたら、本来勝つはずの蛇の負けになってしまう。節の内側に収めることにした。
また蛙は起きて活動している時は手足の4本の指を開いているが、寝る時は手足を体の下に潜らせるようにして寝る。手足を開いていると威勢よく蛇に睨まれた感じというより、蛇が小さいがゆえに対等に戦っているように見えてしまう。しかし手も足もすくんだ姿にすると、寝ているから蛇が近寄ってきているのに気づいていないようにも見えてしまう。そこで足は開いているが手は寝ている時の、体の下にしまった姿にしてみた。
本来自然界ではこのような姿になることはあまり見かけない姿勢だが、蛇に恐れをなしている蛙の姿を表現することができたと思っている。
材木を手に入れて、いざ彫刻に入ったが、これまでの作品とは違い、彫る事には苦労をしなかった。蛇のウロコなど手間のかかる部分もあったが、彫りにくい部分や彫りながら形を決める部分がなかったので、あっという間に形が出来上がっていった。
しかし今回の一番の難点となるのは彩色である。
平櫛田中先生のように彩色は外部発注という方法もあったが、今回は先生の指導を受けながら自分で塗っていくことを選択した。
私の彫刻の師匠の一門に絵画の卓越した人がいる。同じ門弟であるその川端さんに一から学びながら進めていった。
竹の古い感じを表現するために絵の具を筆ではなく指で塗ったり、布で擦ってツヤを出したりと、勉強になる事も多かった。そして最後は先生に修正を入れてもらい、何とかこの作品を完成させることが出来た。
 
さて作品が出来上がると、そのタイトルを決める必要がある。クラシック音楽のように、タイトルなしの作曲した順番に作品番号を付けるだけというわけにはいかない。
そしていくつか候補が上がった。
“剣ヶ峰” “絶体絶命” “土俵際” “弱肉強食” “助命嘆願” 蛇に睨まれた蛙” “木彫蛙と蛇” …
最初は土俵際というタイトルが気に入った。それは竹の節を土俵に見立ててその内側でのドラマを演出したからだ。
しかし二科展ではその解説書きを展示する事が出来ない。ほとんどの人がその事を知らずに見て通り過ぎていく。私がいちいちそれを説明しないとタイトルの意味が分からないのではいけない。
次に候補に上がったのは“絶体絶命”と“剣ヶ峰”である。蛙はこの距離に蛇が近寄ってきてしまったらもう逃げる事は出来ない。まさに絶体絶命の状態である。
この作品のドラマの一瞬を言葉で表すと最も相応しいタイトルである。また同じ意味である“剣ヶ峰”は多くの人が意味を知らない言葉であるがゆえに、また理解されずに通り過ぎられる可能性もあるが、“絶体絶命”よりアカデミックな感じもする。
しかしこの意味のタイトルは蛙目線で捉えたタイトルになってしまう。私としては蛙と蛇は同等に扱いたいところである。
そこで最終的に行き着いた答えは、“木彫蛙と蛇”である。
そもそも私は今回の作品を作るにあたって、写実的な蛙と蛇と竹を彫りたいと思ったのが最初である。蛇に睨まれた蛙は、二番目の理由である。
そしてこれまでの私の二科展の出品作はタイトルの頭に“木彫”が入っている。
私の彫刻のテーマは、ある姿を写実的に木で彫ること。木彫◯◯とは、そういう意味があるのだと、今回私の作家としてのテーマを位置付けた事にもなった。
 
それから最後に今回の制作の中で起きたちょっとしたエピソードを話したい。
西条に帰省した時に捕まえたアマガエルをケースに入れて観察したり撮影したりした。
しかし帰京する際に、その事を忘れてケースに入れたまま置き忘れて帰ってきてしまったのだ。
翌朝父に電話をしてその事を伝えて見てきてもらった。すると父から折り返しがあり「元気にしよったから逃がしといたぞ」
ホッと胸を撫で下ろした。

 


 

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